平川裕貴ブログ

私はなぜ「日本航空CA」から「子ども英語教育」に取り組むようになったのか ②

2019年10月14日

JALのCA時代、

外国人が発した飲み物が聞き取れなかった私。

その飲み物が何かわかった時のショック!

2歳の子でも知っているその単語とは、

何だと思いますか?

それはなんと

 

milk ミルク

 

信じられます?

 

中学、高校、大学と10年近く勉強してきているのに、

「なぜ?」

「なぜ、こんな簡単な単語が聞き取れないの?」

 

その時、私の頭の中にその疑問が焼き付いたのね。

のちにその答えを知ることになった私。

 

その答えとは、

 

「人間の耳は、早ければ7^8歳で母国語に固まってしまう」

「日本語音は1500ヘルツ以下

英語は2000~15000ヘルツ」

 

私が英語を学び始めたのは、中学校になってからだから、

私の耳は、すっかり母国語に固まっていたわけだ。

おまけに、日本語と英語じゃ音が全然違うんじゃない。

これじゃ聞き取れなくて当たり前だよね。

中学生になってからでは遅すぎるってことだよ!

 

とまあ、自分を納得させることはできたけど

スッキリしないよね。

それで、日本の英語教育に疑問を持つようになり、

じゃあ、学校の英語教育でできない部分を

補いたいと思うようになった。

 

そんな思いを抱いていた私は、

導かれるように、ブリタニカという会社に

セクレタリーとして勤めることになる。

 

ブリタニカって百科事典で有名な会社だったのだけど、

まさか、この会社が外国人を使った

子ども英語スクールを創めるとは、

その時は、想像もしなかった。

 

不思議でしょう?

 

私の子ども英語教育の歴史は

そこから始まっているのよね。

 

本当に一生の仕事だと張り切っていたけど、

結局、自分で納得できる理想のスクールを創りたくて

6年で退職した。

 

そして、サラリーマンだった夫を引き込んで会社を創り、

最初に神戸の六甲というところで

外国人講師が教える子どものための英会話教室

『リリパット』を開校した。

1988年のこと。

 

受け入れたのは2歳から。

だって、幼児期じゃないと、耳が母国語に固まっちゃうんだから。

 

ちなみにリリパットってガリバー旅行記に出てくる

小人国の名前。

 

その後、神戸地区に3校、大阪に1校開校して、

1000人近い生徒を集めるまでになった。

 

順風満帆でした。

1995年1月阪神淡路大震災に遭うまでは。

 

 

震災後は、谷底へと真っ逆さまの生活になり、

長い苦難の道が始まります。

それもまたいつかお話していきますね。

 

ということで、私が子どもの英語教育に取り組むようになった、

そして、子どもにこだわった理由と経緯

お分かりいただけましたか?

 

サラリーマン時代も合わせると、もう40年近く

経つわけだ~。

我ながらビックリです。(笑)

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

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